保守主義と自由主義

保守主義と自由主義

自由主義について

常々対比として用いられる

保守主義という話をしている中で度々出てきた単語『自由主義』、こちらも政治・経済という学問においては必然的に習う言葉となっている。そしてこの自由主義もまた政治という世界において重要な思想の1つとして用いられており、それに対して保守主義もまた同様に用いられてくる。ではここからはそんな政治思想として用いられている『自由主義』についての考察をしていこう。

まず簡単な概要として、自由主義とは一般的に言うと『人間には理性があり、既存として存在している権威においても侵食されない自由を有していることで、政治としても、経済としても、あらゆる面で個人としての尊重が伴われるものである』と、そのように見られている。人は生まれながらにして自由を有しているんだから、誰かに束縛されることは無く自由に政治活動をすることが出来るということだ。それに伴って経済的な面においても資産を有する事が可能となり、そうした社会の中で人が人と触れ合うことによって更に政治としても、経済としても発展することが出来ると考えられている、そう筆者は考えている。

ただ自由と言う言葉を使えば聞こえはいいかもしれないが、真なる意味で自由は存在しないことは誰もが知っていることだろう。日本ないし、世界のどの国においても、生まれた瞬間から自分は自由なんだから好きなように生きて問題ないとする、そんな極端な思考をする人も中々いないと思う。自由という言葉に託けて、実際のところはがんじがらめの束縛状態であるという事を知るまでに時間を要することはない。

筆者としてはこうした自由主義に対しては必要だと考えている部分はあるが、何者にも縛られないという生活を送る方がよほど辛いだろう。自由だからこそ何をすればいいのか迷い、自由なためにどうすればいいのか分からなくなってしまう、そんな状況に陥ってしまうからだ。先ほどまで話した保守主義においても自由主義を肯定している部分はあるにしても、そうした行動の中には政府としても干渉する部分は必ず出てくると、暗に表現している資料がほとんどだった。自由という言葉を使用する事は簡単かもしれないが、実際のところ本当の意味で束縛のない状況になったら案外困ってしまうだろう。

さて、ではそうした人間に本来依拠している思想でもある『自由主義』について、先ずはその起源から探ってみよう。

自由主義の史実による始まり

人間の自由性を最初に唱えたのはヨーロッパで哲学者として、そして政治学者として活動していた『c』という学者によるものだった。彼は人間に備わっている自由とはいかなるものなのかということについて、次のように述べている。

『人間は生来自由で可能性に満ちた生き物であり、
いかなる人間にも自らの自由な意思と選択で生きることが認められている』

こう表現した、当時の人々からすれば教会と国を全て王の言葉こそ絶対であり、そしてそれこそが自分達の全てであると考えられていた。彼の言葉は中世という事態にとっては非常に異端な言葉であった事は間違いない、だがその言葉を受けて本当はそうではないのかと思う人々も少なからず存在していたはずだ。こうした人間の生来備わっている自由という権利は『自然権』として呼称されるようになり、その自然権は例え王であったとしても妨害することはできない思想であると述べた。

絶対王権主義とする考え方が根付いていたヨーロッパでは、共感を招くこともあるかもしれないが、大半の人には何を言っているのか理解する事が出来ないという風に感じていた人もいたのは安易に予想することが出来る。彼の言葉を聞いてどれ程の人が感銘を受けることになるかは知ることは出来なくても、歴史として彼の言葉は後世に語り継がれることとなる。

その後ロックはさらに、財産についても私有化することが許されていると述べるまでに至った。それは例え王であったとしても個人で所有しているものを勝手に奪うことは許されないと考えていた。また、財産となるものは自然界の共有物から切り離されたもので、それをしたのも財産の所有者となる持ち主が汗身を惜しんで獲得したものだと、こうも述べている。そうした物品を国ないし、第三者が使用する事は認められず、奴隷化と同等で正義という理念からかけ離れているとした。ロックという哲学者が生きているなら、彼の言葉に多くの人々が感銘を受ける事は間違いない。そしてこれによって政治思想としての自由主義と、人間としての個人の自由という概念が許諾されるべきものだとする一般的価値観が普及することになる。

現代の自由主義について

ロックが唱えたこれらの思想はその後現代ではどのように形として表現されるようになったの課というと、概ね彼の通りに現代では自由主義を肯定化されることとなった。自由主義、現代では『リベラリズム』とも呼ばれているが、その定義としては次の通りになる。

『自己と他者の自由を尊重する社会的公正を思考する思想体系を指している』

こうしてみるとあくまで政治的な価値観で構成されているが、要するに現代においては自由とは人間という個体全てにおいて独立しており、その中ではあらゆる選択をする事が可能となり、他者に虐げられる様なことのない暮らしをすることが出来るようになる。そこに男女という垣根も存在せず、そして与えられる機会についても常に平等であり、そして不幸というものも最小限に留められるようにするとしている。

さて、こうした事が本当に個々人にだけ任せていれば本当に実現するかどうか、という点に着目して考えてみると、まず不可能だろう。人間が2人集えば折り合いのつかないことが起きれば解決策を見出さなければならない。その解決策も時と場合によっては最悪殺し合いなどといったものへと発展することもある。そうならないために仲介役として自治体などの地域社会や政府といった、公的機関の介入によって実現することが出来ると考えられている。

結局、人間は生まれながらに自由を有していることに変わりはないが、そこから人間社会というシステムの一部として組み込まれ作動して行く中で、システムの機能がキチンと稼動するためにも1つの大きなパーツが必要になるということだ。そしてそのパーツを介することによってよりシステム機能を循環させることとなる。結局のところ、真の意味で自由というものを追求することになったら、かなり無理な話だという事がここで証明される結果となってしまった。

自由至上主義との違い

自由主義という話をしている中で出くわすことになる『自由至上主義』という言葉がある。リバタリアニズムとも呼ばれているこの思想は、端的に言うと自由を生まれながらにして持っており、そしてそんな自由を有している人間の活動に政府は最大限尊重して干渉するべきではないとする考え方となっている。つまり、限界まで自由にやらせてみた結果、自由を侵害する行為を行ったものに対しては容赦ない制裁を与えるべきだとする思想となっている。

先に述べた自由主義との違いというものを提示すると、自由主義は自由を許しながらも社会として『公正に』物事を運用して行くことを目的としている一方で、自由至上主義とは、自由を許して他人との競争を促すことになるが、そこに『公平』というものは存在していない、という点だ。こうなるとどちらを主とするべきかと聞かれたら、間違いなく前者と答える人が多いだろう。それもそうだ、リバタリアニズムとはつまり、ある物事に対しての知識を保有しているかどうかで貧富の差を分かつことになってしまうという、自由というものの最大の功罪を浮き彫りにしてしまうからだ。

もしもリバタリアニズムという思想を重視した政治を基本としてしまえば、それだけで国民間で貧富の差というものが拡大に広がってしまう事は明白であり、危惧しなければいけない問題でもある。独裁的な政権であるならそれもアリかもしれないが、民主主義を名目としている国家でリバタリアニズムを容認しようものなら何が起こるか分かったモノではない。

政治思想としてどちらも重要になってくるが、現在のところリバタリアニズムを重点的に考えている国もないと思うので、とりあえず自由主義という言葉についての理解を深めておくに越したことはない。